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第六話 今だ

  待つというのは、何もしないことではない。  将棋で言えば、相手の攻めが切れるのを待つ形である。受けて、受けて、また受ける。指す手数は攻めるより多い。ただ、盤の上は動かない。動かないものを見ている側には、何もしていないように見える。  切れる瞬間は、来るときは一度に来る。  そのとき指せるかどうかは、それまでの何十手を、正しく受け続けたかで決まっている。  柱島の五日は、何も起きない一日だった。  木村一二三通信参謀少佐は、朝、電信室で夜間の受信簿を確認した。三十七通あった。気象が九通、補給が十四通、人事が六通、残りが各部隊からの定時報告である。  真珠湾からのものは、当然ない。  命令には、無線を使うなと書いてある。見たものは持ち帰る。帰りは、早くて六日だった。  彼は傍受記録の綴りを出した。  連合艦隊は米海軍の通信を傍受している。中身は解けない。分かるのは通信量と、発信局の位置と、呼出符号の使われ方だけである。  三日間、変化がなかった。太平洋方面の米軍通信は平常のまま、ハワイ方面の発信も増えていない。  一二三は、その記録を長く見た。  何かが起きたのなら、通信量が動くはずだった。動いていない。  これは、二つのことを意味しうる。何も起きなかったか、通信量を増やさない方法で扱われたか。  どちらとも言えなかった。  通信から読み取ることは、できない。  彼は綴りを閉じた。  盤の前で長考することには慣れている。長考は、考えれば進む。ここには考える材料がなかった。材料のないところで待つのは、初めてだった。  午前中、彼は艦の中を歩いた。  用事はあった。各分隊の通信員の配置を確認して回る。開戦時に何が起きるか分からないので、伝令の経路を二重にしてある。その確認である。  高角砲と機銃も見た。対空火器は、主砲と違って命令が届くのを待たない。空襲は時間が足りないので、あらかじめ「撃ってよい条件」が与えてある。条件に合えば、砲側の判断で撃つ。  一二三は、機銃座の兵曹に訊いた。 「どういうときに撃つ」 「敵機が来たときであります」 「敵機かどうかは、どう決める」  兵曹は、少し考えた。 「近づいてきて、こっちに向いておりましたら」 「味方だったら」 「味方は、そういう来かたをしません」  一二三は、その答えを頭の中でもう一度繰り返した。  正しい答えである...

第五話 九七式大型飛行艇

  言葉を遠くへ運ぶ方法は、いくつもない。  電文は速い。速いが、読まれる。空を通る以上、聞こうと思えば誰にでも聞ける。手紙は残る。残るが、途中で開かれる。開いた者は、開いたとは言わない。  いちばん古い方法は、人が覚えて行くことだった。紙に書かず、鍵もかけず、頭に入れて、体ごと運ぶ。  遅い。危ない。一人死ねば、それで消える。  それでも、確実なのはこれだけである。  十二月二日の夜、羽田沖は暗かった。  外務省南方局の三上四郎は、桟橋の端に立って、自分の荷物を見ていた。革の鞄が一つである。着替えと、洗面具と、公務の書面。それだけだった。  辞令が出たのは、前日の午後である。  ワシントンの野村・来栖両大使宛に、急送の書面を届ける。名目はそれだった。書面そのものは、届けるという事実のための紙にすぎない。本当に運ぶものは、紙にしていない。  辞令を受けたあと、彼はもう一度、大臣室に呼ばれた。  一度目は二日前で、覚書を書いた本人として呼ばれた。原文にあたったか。定義がないというのは確かか。この付箋はお前か。それだけ訊かれて、三分で下がった。  二度目は、扉が閉まった。 「聞いておるな」  東郷が言った。 「はい」 「野村と来栖への返答は、紙にも電文にもしない。お前が口で運べ」 「承知いたしました」  東郷は、書類から目を上げなかった。 「行程は、海軍が決めた」 「はい」 「私は、聞いておらん」  三上は、その一言の意味を考えた。  考えて、聞かないことに決めた人の言い方だ、と思った。この人は、外務省の職員がどういう経路でワシントンへ渡るのかを、知らないままにしておくつもりでいる。知れば、止めるか、許すか、どちらかをしなければならなくなる。  それが、この老外交官にできる全部だった。 「気をつけて行け」  それだけだった。  三上は一礼して、下がった。  廊下へ出てから、また手が汗をかいていた。  外務省が今度ばかりは速い、と三上は思っていた。  この四年、この役所は決まったあとに報される側だった。満洲のときも、仏印のときも、三国同盟のときもそうである。軍が先に動き、既成の事実ができてから、外務省がそれを世界に説明する役を負う。説明できない事実を、説明できる形に翻訳するのが仕事になっていた。  外交の主導権は、とうに軍に移っている。  外交というのは、本来、戦...

第四話 役所仕事

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  権威は、見えない。  誰の言うことが通り、誰の言うことが通らないか。その順序はどこにも書かれていないのに、部屋に入れば全員が知っている。  力は、少し見える。  腰に差した刀。並んだ砲。港に浮かぶ艦。数えられるし、写真にも写る。強いか弱いかを、素人でも言い合える。  だが、この国の役所がいちばん言うことを聞くのは、権威でも力でもない。紙である。  様式が合っていて、判が揃っていて、誰も反対しない紙。それが五人か六人の手を通ると、組織の意思と呼ばれるものになる。  十一月三十日。  木村一二三通信参謀少佐は、机の上の紙を出した。  書きかけの起案である。まだ一枚も清書していない。文言が固まっていないからだった。  彼は昨夜まで、この紙の書き出しをどうするかで詰まっていた。  詰まりが取れたのは、今日である。開戦の決定が近い、という空気が艦の中で固まったからだった。  決まる前に出せば、この起案は「開戦を止めようとする文書」に見える。決まったあとに出せば、「開戦の準備を整える文書」になる。同じ紙が、日付一つで別の物になる。  彼は書き出しを直した。  日付は最初から決めてあった。十二月三日である。  機動部隊の到着から逆算すれば、五日前という数字は、偵察の時期として説明がつく。説明がつく数字は他にもあったが、もう一つの逆算に合う日は、その一日しかなかった。  書きながら、十二月三日という数字を、彼は一度だけ見た。  自分の生まれた日である。三十六になる。それだけのことだった。  もう一つの逆算は、マレーから始まっている。  コタバルに上陸するのは八日の未明である。その時刻は、ワシントンでは七日の午後にあたる。話をするなら、その後でなければならない。先に話せば、上陸は約束を破った形になる。後で話せば、済んだことの説明になる。  七日の午後から遡ると、ホノルルを発つのは着いたその日である。降りて、そのまま乗り継ぐ。一日でも遅れれば、間に合わない。  この逆算は、命令書のどこにも書いていない。  直しながら、一二三は、この紙が通ったあとのことを考えていた。  仏印からは撤兵しない。南方作戦は予定どおり動く。オランダは本国を失い、英国は手が回らない。この地域で撤兵を要求できる立場にあるのは、実質、合衆国だけだった。  その合衆国にしても、開戦を決めるのは議会である。...

第三話 賭け

  読むだけでは、何も止まらない。  総力戦研究所の答申は、日本必敗と出ている。読みは当たっている。当たっていることと、それで艦隊が止まることのあいだには、何もない。  艦隊は、いまも東へ進んでいる。読みを実行に変える手立てを、一二三はまだ一つも持っていない。  今夜、それを取りに行く。  二十九日の夜、山本五十六は先に座っていた。  これは珍しいことではない。長官が先に盤を出している晩は、月に何度かある。ただ、今夜は駒がもう並んでいた。  自分の側だけでなく、一二三の側も並んでいた。  一二三は一礼して座った。並べる手間が省かれているという事実を、どう受け取るべきか少し考えて、考えるのをやめた。 「振れ」  歩を五枚、盤に落とした。と金が三枚。 「私の先手でございます」 「やれ」  一昨日の話は出なかった。真珠湾という言葉も出なかった。起案した二枚の紙の話も、今朝岩国へ託した手紙の話も、今日の昼に軍令部から来た電報の話も出ない。この人は、盤の前でその日の仕事の話をしない。  一二三は初手を指した。  二局目は、遅かった。  一昨日とはまるで違う将棋である。一二三は自分の将棋を指した。守って、待って、相手の攻めが息切れするのを見てから動く。  山本は攻めた。この人はいつでも攻める。攻めない将棋を指せないのではなく、攻めない将棋に興味がない。  六十手を過ぎたあたりで、局面が動かなくなった。  攻めきれず、受けきれず、どちらの駒も減らないまま、盤の上の形だけがゆっくり変わる。将棋を指す人間が最も嫌う時間である。何かが起きているのに、何も決まらない。  山本は煙草を吸っていた。灰皿の縁に置いて、また取って、吸って、置く。長考している。  一二三は自分の手番でないあいだ、盤を見ていなかった。  彼は、この一拍を待っていた。  二日かけて考えた結論はこうだった。この人に対して、資料は効かない。二枚の紙は読んでもらえたが、動いたのは文言の直しだけである。数字を並べても同じだろう。この人は自分でも数字を持っている。  効くのは、盤の上で起きたことだけだった。一昨日、それは確かめられた。  だから今夜やることは、説明ではない。  賭けの申し込みである。  山本が駒を持ち上げた。持ち上げて、戻した。指さずに戻すのは、この人にしては珍しい。  一二三は、そのときに言った。 「...

第二話 裏を読む

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  刀は、抜けばそれで終わりだった。  抜いた者はその場で全部を賭ける。だから腕のある者ほど、鞘の中にいるうちに用を済ませた。  海軍は、もう抜いていた。  空母六隻を中心とする機動部隊は、前日、千島の単冠湾を出ている。目指すはハワイ、真珠湾。無線を封じ、洋上を東へ進み続けている。  抜いた刀は、鞘に戻る前に、誰かの手で止めるしかない。  山本五十六は、盤を見なかった。  一二三の顔も見なかった。盤の隅に置いた飛車をつまみ上げて、駒台に叩きつけた。音が響いた。 「木村」 「はい」 「その言葉を、どこで覚えた」  一二三は、来るとすればここだと思っていた場所から、正確に来たと思った。  議論ではない。中身でもない。今しがた自分が言ったことが正しいか間違っているかを、この人は一言も訊いていない。訊いたのは、その単語をなぜお前が知っているのか、である。 「通信参謀でございますので」 「聞いとらん。どこで覚えたと訊いた」 「電文でございます。私は、この艦を通る電文を全部読みます。読まなければ組み立てられませんので」 「読める立場と、口にしていい立場は違う」 「存じております」 「知っとって言うたか」 「はい」  長官が声を荒げた。 「馬鹿者が。少佐風情が、口にしていい言葉と悪い言葉の区別もつかんか」  灰皿の吸殻を指で押しつぶし、もう一本取って、火をつけ損ねた。二度目でついた。 「この部屋の外に、その言葉は存在せん」 「はい」 「わしが今夜お前を降ろせば、明日から誰もお前の名前を出さん。理由も書かん。書かんでも通る」 「はい」  それきり、何も起きなかった。  長官は煙草を吸っていた。半分ほど吸って、消した。息を一つ吐いて、それだけで、さっきまでの熱が引いていくのが分かった。  黙って、ひとり、駒を並べ始めた。  処分の話はそこで終わった。作戦の話は始まらなかった。角を捨てた理由も、飛車を取った意味も、二度と話題に出なかった。 「下がれ」  一二三は一礼して、部屋を出ようとした。 「木村」 「はい」 「総力戦研究所で、お前は何を書いた」  一二三は振り返った。 「模擬内閣の閣僚を割り振られ、企画院総裁を務めました。結論は、対米開戦は緒戦の勝敗にかかわらず、長期には必敗、というものでございます」 「知っとる。読んだ」  総力戦研究所は、この年の四月に内閣直轄で開かれた...

第一話 三味線

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  侍の刀は、抜くための物ではなかった。  それでも彼らは、外へ出るときは必ず腰に差した。抜かないと決めている物を、毎朝欠かさず身につけて歩き、これは自分の魂であると公言した。  鞘に納まっているあいだ、刀は誰も斬らない。斬らないまま、相手に間合いを計らせる。  もっとも、二百六十年の泰平のあいだに、それは形だけの物になっていた。差していれば侍で、差していなければ侍ではない。身分を示す札に近い。抜き方を知らない侍がいくらでもいた。  効きはじめたのは幕末である。  志士と呼ばれた男たちは、その前にまず剣客だった。  桂小五郎は江戸三大道場の一つ、練兵館の塾頭だった。近藤勇は天然理心流の宗家を継いだ。勝海舟は直心影流の免許を持ち、そのうえで人を斬らないと決めて、鞘を留めて歩いた。坂本龍馬は土佐で日根野道場の免許を得て、さらに江戸へ出て千葉道場でも剣を修めた。  この時代、誰の言うことが通ったかを並べていくと、たいてい斬れる男の言うことが通っている。斬ったからではない。斬れると皆が知っていたからだ。発言力は、刀にあった。  そして、腕のある者ほど抜かなかった。抜いた瞬間に、その場の全部を賭けることになるからである。  昭和十六年の日本には、その理屈がなかった。  五・一五で首相が撃たれ、二・二六で蔵相と内大臣が殺された。首謀者は罰せられたが、罰せられたのは人であって、仕組みではない。以後、陸軍と海軍は、大臣を一人出さないというだけで内閣を潰せるようになった。抜かずに殺せる。政府の中にいて、政府の外にいる。  その政府を代表して、外交官は卓の向こうへ坐らされた。  両手に抜き身を提げていた。北に陸軍、南に海軍。  抜き身を提げた男の言うことを、誰が信じるか。  その二本のうち、南の一本――海軍という刀の、柄にあたる場所がある。連合艦隊旗艦、戦艦長門の通信室である。  木村一二三少佐は、連合艦隊司令部の通信参謀である。  連合艦隊司令部は、戦艦長門に乗っている。艦隊という物には陸の上に本部がない。長官も参謀長も参謀も、全員が旗艦の中で寝起きし、そこで海軍の全部隊を動かしている。長門は艦であると同時に、この国の海軍の頭であった。  その長門は、柱島にいる。  広島湾の南の口、岩国の沖に浮かぶ小さな島である。周りを島に囲まれて外海のうねりが入らず、水深があり、戦艦が何隻...