第三話 賭け

  読むだけでは、何も止まらない。


 総力戦研究所の答申は、日本必敗と出ている。読みは当たっている。当たっていることと、それで艦隊が止まることのあいだには、何もない。


 艦隊は、いまも東へ進んでいる。読みを実行に変える手立てを、一二三はまだ一つも持っていない。


 今夜、それを取りに行く。



 二十九日の夜、山本五十六は先に座っていた。


 これは珍しいことではない。長官が先に盤を出している晩は、月に何度かある。ただ、今夜は駒がもう並んでいた。


 自分の側だけでなく、一二三の側も並んでいた。


 一二三は一礼して座った。並べる手間が省かれているという事実を、どう受け取るべきか少し考えて、考えるのをやめた。


「振れ」


 歩を五枚、盤に落とした。と金が三枚。


「私の先手でございます」


「やれ」


 一昨日の話は出なかった。真珠湾という言葉も出なかった。起案した二枚の紙の話も、今朝岩国へ託した手紙の話も、今日の昼に軍令部から来た電報の話も出ない。この人は、盤の前でその日の仕事の話をしない。


 一二三は初手を指した。



 二局目は、遅かった。


 一昨日とはまるで違う将棋である。一二三は自分の将棋を指した。守って、待って、相手の攻めが息切れするのを見てから動く。


 山本は攻めた。この人はいつでも攻める。攻めない将棋を指せないのではなく、攻めない将棋に興味がない。


 六十手を過ぎたあたりで、局面が動かなくなった。


 攻めきれず、受けきれず、どちらの駒も減らないまま、盤の上の形だけがゆっくり変わる。将棋を指す人間が最も嫌う時間である。何かが起きているのに、何も決まらない。


 山本は煙草を吸っていた。灰皿の縁に置いて、また取って、吸って、置く。長考している。


 一二三は自分の手番でないあいだ、盤を見ていなかった。


 彼は、この一拍を待っていた。


 二日かけて考えた結論はこうだった。この人に対して、資料は効かない。二枚の紙は読んでもらえたが、動いたのは文言の直しだけである。数字を並べても同じだろう。この人は自分でも数字を持っている。


 効くのは、盤の上で起きたことだけだった。一昨日、それは確かめられた。


 だから今夜やることは、説明ではない。


 賭けの申し込みである。


 山本が駒を持ち上げた。持ち上げて、戻した。指さずに戻すのは、この人にしては珍しい。


 一二三は、そのときに言った。


「長官」


「うん」


「一つ、賭けをさせていただきたく存じます」


 山本の手が、駒箱の縁で止まった。


 顔を上げた。目が変わったのが分かった。この人は将棋の話をされているときより、賭けの話をされているときのほうが速い。


「何を賭ける」


「私のほうが、倍以上多くあります」


 それだけ言って、一二三は黙った。


 説明はしない。二日かけて決めたのは、この一点だった。


 説明をすれば、それは意見具申になる。意見具申には答えがあり、答えのあるものは却下できる。却下されれば終わりだ。


 黙っていれば、この人は自分で埋める。埋めたものは、自分のものになる。


 山本は動かなかった。


 盤を見た。それから一二三を見た。


「何がだ」


「申せません」


「言わんのか」


「申しますと、賭けになりませんので」


 長官は煙草を灰皿に置いた。今度は取らなかった。




 沈黙が長かった。艦の外で、内火艇が離れていく音がした。


「木村」


「はい」


「お前の言い方だと、数の話に聞こえる」


「はい」


「名前の数字の多いほうが勝つ勝負か」


 山本は笑った。声は出さなかった。口の端だけである。


「ならばこの戦、始める前から終わっとるな」


 一二三は、そのまま座っていた。


 顔を動かさなかった。呼吸も変えなかった。膝の上の手も動かさなかった。


 いま、この部屋で起きたことを、一二三は正確に理解していた。


 今年の四月から夏にかけて、総力戦研究所の第一期生三十余名が、各省庁から出された実物の統計を突き合わせ、鉄と船と油と人を数えた。最後に模擬内閣を組んで、日米戦の机上演習をやった。


 あの結論を一行にすると、こうなる。物量差が開いている以上、緒戦の勝敗にかかわらず、長期戦で日本は資源を先に失う。


 いま長官が言ったのは、それと同じ形だった。


 同じ形だが、同じ物ではない。あれは四か月と三十余人と各省の統計から出てきた。この人の言葉は、盤の前の軽口として、三秒で出てきた。


 そして本人は、たぶん、自分が何を言ったか気づいていない。


 この人は賭場の言葉でものを考える。賭場では、金を多く持っているほうが勝つ。長く座っていられるからだ。腕がいいほうが勝つのではなく、最後まで席にいられるほうが勝つ。


 同じことを、研究所は「国力」と呼んで四か月かけて計算した。


 一二三は、この差について何も言わなかった。


 言えば、この人の言葉が誰かの結論になってしまう。自分で出した答えだけが、人を動かす。


「長官」


「うん」


「その賭け、お受けいただけますか」


「まだ何も賭けとらん」


「賭けるものを申し上げます」


 一二三は一度、息を吸った。


「私が勝ちましたら、長官のお名前で、命令を一つ出していただきたく存じます」


「命令」


「はい」


「どういう意味だ」


「そのままでございます。私が起案し、長官が署名なさる。中身は、そのときに申し上げます。今は申しません」


 山本は、目を細めた。


「作戦は変えられんぞ」


「変えろとは申しません」


 一二三は顔を上げた。


「作戦命令には、一字も触れません。私が起案いたしますのは、作戦とは別の、正規の命令でございます。連合艦隊司令長官のご権限の内にあり、軍令部の承認を得られるものでございます。規則は一つも破りません」


「そんなものが、何の役に立つ」


「立ちます」


「言わんのか」


「申しますと、賭けになりませんので」


 長官は、置いたままの煙草を見ていた。火はとうに消えている。


 沈黙は、さっきより長かった。


「白紙の判をよこせと言うか」


「いいえ。ご覧になってから、お決めください。押さないという選択が残ります」


「それでは賭けにならん」


「なります」


「どうしてだ」


「長官は、紙を出せば読んでやると仰いました。読んでいただけます。読んだうえで、そうかで終わります」


 一二三は顔を上げた。


「私が申し上げているのは、読んでいただくことではございません。読んだ紙に、足を付けていただくことでございます」


 長官は動かなかった。


 これが、この賭けの正体だった。


 一二三は少佐である。書くことはできる。起案もできる。読んでもらうことも、この二日で許された。そこまでは全部ある。


 ないのは、その紙が部屋の外へ出ていく足だった。判のない紙は、どれだけ正しく書いてあっても、書いた者の机の上にあるだけの物である。


 署名というのは、紙に足を付けることだった。連合艦隊司令長官が、規則を一つも破らずに、少佐に払える唯一のものである。


「わしが勝ったら」


 山本が言った。


「私は、二度とこの部屋で盤の前に座りません」


 部屋が静かになった。


 一二三は続けた。


「一昨日、私は長官のお決めになった規則を、破ったように見える指し方をいたしました。あれについて長官は何も仰いませんでした。ですので、私のほうから片づけます。負けましたら、消えます」


 山本は、しばらく彼を見ていた。


 それから、灰皿の煙草を取った。火が消えている。もう一度つけ直しはしなかった。


「木村」


「はい」


「お前は、いま何を賭けたと思っとる」


「私の席でございます」


「違う」


 長官は煙草を灰皿に戻した。


「お前が賭けたのは、わしが払うかどうかだ。お前は自分の負けを先に決めて、こっちの勝ちだけを宙に置いた。勝ったときに、いつ払うかを書いとらん」


 一二三は、答えなかった。


 書いていない。わざと書かなかったわけではなかった。書けなかったのである。期日を切れば、それは要求になる。要求は却下される。


 この人は、それに三十秒で気づいた。


「安い賭けだな」


 山本は言った。


「命令一つなら、出してから引っ込められる。判を押してから、翌日に取り消してもええ。お前はそれを知っとって、それを寄こせと言うとる」


「はい」


「そう来るか」


 長官はもう一度、目を細めた。


「受ける。ただし、払う時期はわしが決める」


「はい」


「明日かもしれん。来年かもしれん。開戦の日かもしれん。お前は待つだけだ。催促はするな」


「承知いたしました」


「返事が早いな」


「そういう賭けだと存じておりました」


 山本は、初めて少し笑った。今度は声が出た。



 それから、二人は指した。


 局面はまだ動いていなかった。六十手を過ぎたあたりの、決まらない形のままである。


 三十分ほど、無言で指した。


 やがて山本が攻めに出た。この人はいつでも攻める。今夜も攻めた。


 一二三は受けた。


 受けて、受けて、七十九手目で、攻めが切れた。切れたところから寄せに入り、十四手で詰ませた。


「負けた」


 山本は言った。あっさりしていた。


 一二三は駒を集めた。集めながら、自分の手が少し震えているのに気づいた。将棋のせいではない。


「木村」


「はい」


「今夜は、指しやすかったか」


「いえ」


「そうか」


 長官は立ち上がって、机のほうへ行った。書類の束に手を置いて、そのまま何もしなかった。


「一昨日のお前の将棋な」


「はい」


「わしは、あれを二晩考えた」


 一二三は駒箱の蓋を閉じた。


「三十四手目まで最善だと言うたな」


「はい」


「そこは、まあ、そうだろう。わしもそう思う」


 長官は振り向かなかった。


「わしが二晩考えたのは、そこではない。二十六手目で角を切らんかったら、どうなっとったか、だ」


 部屋の空気が変わったのが、一二三には分かった。


「お前の将棋なら、切らん。守って、こっちの攻めを切らして、それから寄せる。三か月、そればっかりやられとる。今夜もそうだった」


 山本は書類の束から手を離した。


「二十六手目で切らずに守っとったら、お前は勝っとった。違うか」


「……勝っていたと存じます」


「そうだろうな。わしは二晩、その形を崩そうとした」


 長官はそこで、初めて振り向いた。


「崩れん。どう指しても崩れん。わしの攻めでは、届かん」


 一二三は、駒箱を持ったまま動かなかった。


「わしが訊きたいのはな、木村」


「はい」


「切らんかったほうの将棋を、最後まで並べたことがあるか、ということだ」


「はい」


「盤の話をしとるんじゃないぞ」


「存じております。研究所で、何度もやりました」


 長官の手が止まった。


 顔が動いたわけではない。それまで一二三に向いていた視線が、一度どこにもない場所へ外れて、それから戻ってきた。この人が盤の前で表情を変えるのを、一二三は三か月で二度しか見ていない。


「……そうか」


 それきり、長官は何も言わなかった。


 一二三は一礼して、扉へ向かった。


 扉に手をかけたところで、後ろから声が来た。


「木村」


「はい」


「守った将棋は、面白くないな」


 一二三は振り返らなかった。振り返らずに、答えた。


「はい。面白くございません」


「それでも勝つのか」


「勝負は、運にございます」


 間を置いた。


「ただ、負けぬ形は作れます」


 扉が閉まった。



 廊下は暗い。零時を回っている。


 一二三は自室へ戻らず、電信室のほうへ歩いた。夜間の当直に用があるわけではない。ただ、部屋に戻る気がしなかった。


 賭けは成立した。それは大きい。


 だが、支払いの時期は向こうにある。一二三が持っているのは、いつか一度だけ、紙に足を付けてもらえるという約束だけだった。それを使うのは一度きりで、使う時期は自分では選べない。


 言い換えれば、こういうことになる。


 ——あの人が「今だ」と思ったときにしか、自分の手は指せない。


 将棋であれば、これは形勢が悪い。手番が相手にある。


 ただ、と一二三は思った。


 あの人は、二晩考えていた。三十四手目ではなく、二十六手目を考えていた。派手な手ではなく、その手前で切らなかった場合の形を、二晩かけて。


 盤の話ではない、と長官は言った。


 三十四手目が、真珠湾である。


 派手で、確実で、誰が見ても決まったと思う手。実際、あれは決まる。空母六隻の攻撃隊が奇襲に成功すれば、太平洋艦隊の戦艦は港の中で沈む。そこまでは、おそらく計画どおりにいく。


 いって、それで終わりである。


 日本がこの戦争を始める理由は、油だった。南方の油田を取らなければ、二年で国が止まる。油を取るために要るのは、蘭印と英領への攻略で、真珠湾は一滴も産まない。


 真珠湾を叩いて手に入るのは、米艦隊が半年ほど出てこないという時間だけである。その時間を買うために、この国は米国という相手に、自分から手を出す。


 いま、あの国の世論は参戦に割れている。欧州の戦争にすら入りたがらない人間が過半を占めていて、大統領は息子たちを外国の戦争にはやらないと公約して当選した。放っておけば、あの国はしばらく動けない。


 港を焼かれれば、その全部が一晩で消える。割れていた国が一本になる。


 昨夜、長官が言ったとおりだった。人は法律論では動かない。侮辱でなら動く。


 その侮辱を、こちらから届けに行こうとしている。


 そして、終わらせ方がない。緒戦で勝って有利な条件で講和する、というのが計画だった。講和には、卓の向こうに坐る相手が要る。不意打ちで始めた戦争の途中で、坐ってくれる国はない。


 三十四手目は、王手飛車である。取れる。取ったあとに打つ場所がない。渡した三枚は、そのまま相手の武器になる。


 二十六手目が、いまだった。


 まだ角を切っていない。艦隊は海の上にいるが、まだ何も起きていない。ここで切らずに守れば、勝つ形が残っている。一二三はその形を、四か月かけて研究所で並べていた。


 あの人は二晩かけて、同じ形を探していた。


 それは、この賭けの中身が、もうあの人の頭の中で動き始めているということだった。


 彼は電信室の前で立ち止まった。中から、鍵盤を叩く音がしている。


 この艦は、一日に何百通の電文を受け、何百通を出している。そのほとんどは補給と人事と天候である。開戦準備というものの中身は、九割が事務だった。


 残りの一割の中に、東京へ出した私信が一通ある。


 岩国の東京便に載って、昨日の夕方には外務省に着いているはずだった。二枚の便箋のうち、一枚半が将棋の話である。十のうち受けねばならんのは二つだという値踏みと、その二つのうち一つの範囲を確かめてくれという頼みと、手の内が漏れているという警報が、その将棋の話に紛れて書いてある。


 あれが誰の手に渡り、どこを通って、どこへ届くのか、一二三は知らない。知る手段がない。知ろうとすれば足がつく。


 投げた石の行方が見えないというのは、こういう感じなのか、と思った。


 当直の下士官が扉を開けて、少佐に気づいて敬礼した。


「何かございますか」


「いや」


 一二三は敬礼を返した。


「夜の海を見ようと思っただけだ」


 嘘だった。長門の電信室に窓はない。


 下士官は、そうでありますか、と言って扉を閉めた。



 十一月三十日の未明、機動部隊の位置を示す推定図が更新された。


 艦隊は無線を封じている。だから、これは実際の位置ではない。出撃時の計画と、日数と、想定速力から引いた線である。紙の上でだけ存在する艦隊だった。


 一二三は図を見た。


 線は、まっすぐ東へ伸びている。北緯四十三度あたりを、荒れた海を、三十隻を超える艦が無線を切ったまま走っている。誰とも話さず、誰の声も届かない場所を。


 あの艦隊に、いま何かを伝える方法はない。


 正確には、一つだけある。無線封止は送信の封止であって、受信は生きている。こちらから打てば、届く。届くが、打った瞬間に、この海域に艦隊がいることを世界中に教えることになる。


 だから誰も打たない。打つのは、開戦の合図のときだけだ。


 あと七日ある、と一二三は数えた。


 彼は推定図を戻して、自室へ帰った。


 二十六手目で切らない、というのは、何もしないという意味ではなかった。


 守るというのは、相手の攻めが届かない形をこちらで作り続けることである。放っておけば崩れる。一手でも止めれば、そこから入られる。守りの将棋のほうが、指す手数は多い。


 では、いま指すべき手は何か。


 止めるために要るものを、一二三は三つ数えた。


 一つ、命令。長官の署名が要る。これは賭けで取った。ただし、いつ払われるかは向こうが決める。


 二つ、届ける物。言葉は届かない。物なら届く。飛行艇が一機、真珠湾の外に浮いていればいい。機体と、飛ばす理由と、規則の上で通る形が要る。


 三つ、卓の向こうに坐る相手。物を見せても、見た人間が話を持っていく先がなければ終わる。東京と、ワシントンと、その両方に人が要る。


 三つのうち、一つは手に入った。二つ目は、明日から取りにかかれる。


 三つ目は、投げた石の行方次第だった。


 次に用意しなければならないのは、機体である。

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