第二話 裏を読む
刀は、抜けばそれで終わりだった。
抜いた者はその場で全部を賭ける。だから腕のある者ほど、鞘の中にいるうちに用を済ませた。
海軍は、もう抜いていた。
空母六隻を中心とする機動部隊は、前日、千島の単冠湾を出ている。目指すはハワイ、真珠湾。無線を封じ、洋上を東へ進み続けている。
抜いた刀は、鞘に戻る前に、誰かの手で止めるしかない。
山本五十六は、盤を見なかった。
一二三の顔も見なかった。盤の隅に置いた飛車をつまみ上げて、駒台に叩きつけた。音が響いた。
「木村」
「はい」
「その言葉を、どこで覚えた」
一二三は、来るとすればここだと思っていた場所から、正確に来たと思った。
議論ではない。中身でもない。今しがた自分が言ったことが正しいか間違っているかを、この人は一言も訊いていない。訊いたのは、その単語をなぜお前が知っているのか、である。
「通信参謀でございますので」
「聞いとらん。どこで覚えたと訊いた」
「電文でございます。私は、この艦を通る電文を全部読みます。読まなければ組み立てられませんので」
「読める立場と、口にしていい立場は違う」
「存じております」
「知っとって言うたか」
「はい」
長官が声を荒げた。
「馬鹿者が。少佐風情が、口にしていい言葉と悪い言葉の区別もつかんか」
灰皿の吸殻を指で押しつぶし、もう一本取って、火をつけ損ねた。二度目でついた。
「この部屋の外に、その言葉は存在せん」
「はい」
「わしが今夜お前を降ろせば、明日から誰もお前の名前を出さん。理由も書かん。書かんでも通る」
「はい」
それきり、何も起きなかった。
長官は煙草を吸っていた。半分ほど吸って、消した。息を一つ吐いて、それだけで、さっきまでの熱が引いていくのが分かった。
黙って、ひとり、駒を並べ始めた。
処分の話はそこで終わった。作戦の話は始まらなかった。角を捨てた理由も、飛車を取った意味も、二度と話題に出なかった。
「下がれ」
一二三は一礼して、部屋を出ようとした。
「木村」
「はい」
「総力戦研究所で、お前は何を書いた」
一二三は振り返った。
「模擬内閣の閣僚を割り振られ、企画院総裁を務めました。結論は、対米開戦は緒戦の勝敗にかかわらず、長期には必敗、というものでございます」
「知っとる。読んだ」
総力戦研究所は、この年の四月に内閣直轄で開かれた。陸海軍、各省、銀行、商社、新聞社から、三十代の若手が三十六人集められた。階級も役所の壁も外し、国力の数字だけを渡して、対米戦を最後まで計算させる。そういう場所だった。
七月から八月にかけて机上で演習し、八月の末に答申を読み上げた。結論だけを言えば、日本は敗れる、というものである。
聞いていたのは首相と陸相だった。陸相は、机上の演習と実戦は違うと言った。それで終わりである。答申は綴じられ、どこかに納められた。以来、あの紙の話をする者に会ったことがない。
「学生の作文だと、みな笑いおった。わしは笑わなんだ」
山本は吸殻を指で押しつぶした。
「今しがた腹が立ったのは、言葉のせいだけじゃない。三か月、黙って将棋だけ指しよって、それだけの読みを溜め込んどったのかと思うたら、腹が立った」
「申し訳ございません」
「詫びるな。次からは、それを黙って盤の上でやるな。先に紙を出せ。読んでやる」
「はい」
それだけだった。長官はもう盤を見ていた。
廊下は暗い。艦の中は、夜になると急に大きく感じる。
自分は今夜、持っていたものを全部使った、と一二三は思った。三か月ぶんの勝ち越しと、あの人が自分で作った規則と、盤の上で起きたこと。全部を一度に使って、返ってきたのは「下がれ」の三文字である。
それでも、彼は降ろされなかった。
将棋であれば、それは局面が動いたということだ。何も起きていないように見えて、一手ぶん進んでいる。この人は、返事をしない代わりに、盤を片づけなかった。
四か月前に紙に書いたとおりに、事が進んでいた。
あの答申は、順を追って書いてあった。米国が石油を止める。日本は南方の資源を取りに動く。開戦は年の暮れ、奇襲で始まる。緒戦は勝つ。半年か一年は勝ち続ける。その先で、取った資源を運ぶ船が沈められはじめる。船が減れば、油田を押さえていても内地に一滴も届かない。三年目に生産が止まる。そこへソ連が入ってくる。日本は敗れる。
石油は八月に止まった。南方へ向かう作戦はもう動いている。開戦は年の暮れで、艦隊は昨日、東へ出た。
ここまでは、当たった。
答申が間違っていたのなら、まだ良かった。合っていた。合っているなら、この先も合う。行き着く先は破滅である。
艦隊は、もう海の上にいる。
止めなければならない。
次は、こちらが指す番だった。
自室で、一二三は写しをもう一度机に出した。
二十三時を回っている。眠くはなかった。
昼に読んだときと同じ紙である。行が増えているわけでも、字が変わっているわけでもない。
変わったのは、こちらの問いのほうだった。
昼に読んだときの問いは、これで戦になるかどうかだった。答えは五分で出た。なる。
今、机の上でこの紙に向かって訊いているのは、別のことである。
——なぜ、こんなに上手いのか。
外交文書というものを、一二三は職掌上いくつも読んでいる。たいていは長い。長いのは、書いた側が自分の正しさを証明しようとするからだ。恨みごとが混じり、経緯が混じり、相手の非を並べる段落が付く。
この十項目には、それが一つもなかった。
短い。順番が整っている。同じことを二度言わない。そして——これが引っかかった——日本が呑めない項目と、呑める項目が、きれいに分かれている。
一二三は指で項目を追った。
第七項、資金凍結の解除。呑める。むしろこちらが求めていたことだ。
第八項、円ドル為替の安定。日米折半で資金を出す。呑める。
第六項、通商協定。生糸を無税に。これは日本に得しかない。
第五項、治外法権の放棄。痛くはあるが、英国その他にも一緒に放棄させると書いてある。呑める。
第一項、多辺的不侵略条約。第二項、仏印の領土保全。第十項、他国への影響力行使。この三つは、実質のない飾りだった。努力する、影響力を行使する、協議に入る。そう書いてあるだけで、いつまでに何をするとは書いていない。守らなくても、破ったことにならない条項である。
ここまでで七項目。
残るのは三つだった。
第三項。支那および印度支那から、一切の兵力を撤収する。
第四項。重慶の国民政府以外の、いかなる政権も支持しない。
第九項。第三国と結んだ協定を、本協定と抵触するように解釈しない。
一二三は椅子の背にもたれた。
三つとも呑めない。ただ、呑めない理由が同じではなかった。
第三項は、自分の足の話である。大陸に置いた百万の兵を引くかどうかを決めるのは日本で、引くと決めれば引ける。相手の承知は要らない。呑めないのは、引いたあとに国民へ何と言うかを、誰も用意していないからだ。四年で十万が死んでいる。あれは何のためだったのかと訊かれて、答えられる者がいない。
あとの二つは違った。
第四項は、汪兆銘を切れと言っている。日本が去年の十一月に、支那における唯一の正統政府として承認し、条約を結び、大使まで送った相手である。
第九項は、三国同盟のことだった。去年の九月、ベルリンで署名した。独伊と日本が互いに助け合うという紙である。判をついたのは、いまワシントンにいる来栖である。
どちらも、相手のある約束だった。
こちらの都合だけで破れるものではない。米国に言われたから破りますと口にした日から、日本の署名は値打ちを失う。次に日本と何かを約束しようとする国が、世界から一つずつ減っていく。
第三項が殺すのは、この国の身体である。あとの二つが殺すのは、信用だった。
もっとも、と一二三は思った。
捨てられない、というのは正確ではない。値段がついている、というだけのことだ。釣り合う物と引き換えなら、売れる。売ったあとに何が残るかを、こちらが承知していればいい。
第九項については、もう一つ引っかかることがあった。
あの同盟が、いま何か役に立っているかと自分に訊いてみて、一つも思い当たらなかった。
独伊が欧州を押さえれば、米英は太平洋まで手が回らない。同盟を結んだときの読みはそれで、読み自体は外れていない。外れていないのに、こちらへ回ってくる物が何もなかった。
値打ちのない紙に、信用という高い値札だけがついている。
一二三は鉛筆を置いて、立ち上がった。
扉を開けて、舷側へ出た。
十一月の夜気が入ってきた。泊地の水は黒く、対岸の島影が、空よりわずかに濃い。錨鎖が鳴っている。潮が変わっている。
しばらく、そこに立っていた。
自室へ戻って、茶を淹れた。冷めた急須に湯を足しただけの、二番煎じである。暗号長が先の便で呉から持ち帰った菓子が、缶の底に一つ残っていた。硬くなっている。噛んで、茶で流した。
それから、写しをもう一度、はじめから番号順に並べ直した。
ばらしたものを紙の並びに戻してみて、はじめて見えるものがあった。
十項目のうち、日本が本当に呑めないのは三項目である。七項目は、呑めるか、どうでもいいか、こちらの利益ですらある。
それを、あの紙は一目で分からないように配ってある。呑めない三つを、残る七つの中に、番号順に混ぜて置いてある。
結果として、東京では誰もが「十項目全部が無理だ」と読んだ。今日一日、この艦の中でもそう読まれていた。全部が無理だと読めば、話は終わる。
書いた人間は、日本のどこが折れないかを正確に知っている。
知っているだけではない。知っていることを、こちらに気づかせないように書いている。
ここで一二三の背中に、細く、冷たいものが通った。
乙案のことである。
十一月二十日、野村大使と来栖大使が、ワシントンで国務長官に手交した紙である。日本が最後に出した案だった。
野村吉三郎はワシントンの日本大使館に詰めている駐米大使で、元は海軍大将である。来栖三郎は今年の十一月に本国から送り込まれた特命の大使で、去年ベルリンで三国同盟に署名した男だった。二人とも米国務省へ通い、卓の向こうにハル国務長官が坐る。
紙の中身はこうである。南部仏印から兵を引く。その代わりに、凍結した資金を解け、油を元通りに売れ。支那からの撤兵は、日支間の和平が成ったあとに行う。
この国が四年のあいだ「絶対に譲らない」と言い続けてきたもののうち、南部仏印を先に手放すと自分から書いた紙である。底の値段を、初めて相手に見せたことになる。
その七日後に、この十項目が返ってきた。
あの紙に、この十項目は一行も触れていない。
触れていないのは、読んでいないからではない。
乙案の底値を見た上で、その底値の外側に、正確に線を引き直したのだ。乙案が「支那は後回し」と言った、そのまさに支那を、第三項と第四項に置き直して。
偶然でこうはならない。
交渉というのは、相手の底値が分からないからする。分かっているなら、それは交渉ではなく採点である。
一二三は立ち上がって、窓のない壁を見た。
こちらの電報は、読まれている
この推理は、持っていっても、誰も相手にしないだろう。
証拠はない。状況からしか出てこない。しかし、他に考えられない。
暗号の安全は、暗号を作った者の権威に直結している。疑うということは、その人たちに面と向かって、あなたの仕事は破られていると言うことだった。
しかも、破られていると確定したら、どうなるか。
直すことになる。直せば、向こうはこちらの手が読めなくなる。
——それは、いいことなのか。
彼は椅子に戻った。
直せば、こちらの中身は見えなくなる。見えなくなった相手に、人はどう備えるか。
最悪を想定して備える。それしかない。
今、米国はこちらの手を読んでいる。読んだうえで、あの十項目を書いた。線は、日本が折れない場所のすれすれ外側に引いてある。すれすれで済んでいるのは、どこまでなら折れるかが向こうに見えているからだった。
見えなくなれば、線は外へ動く。相手が何を呑むか分からないなら、呑ませられるだけ呑ませておくほうが安全である。こちらが何かを差し出しても、それが底値なのか芝居なのか、向こうには判定のしようがない。
暗号を直すというのは、交渉の相手から目隠しを外すことではない。目隠しをさせることだった。
今この国が持っている唯一の窓は、こちらの本音が向こうに漏れているという、その穴だった。日本は公式には何も言えない。言えば統帥に触れ、政府が飛ぶ。だが、漏れているのなら、言わずに伝わる。
嘘をつけない窓が、一つだけ開いている。
彼はそれを閉じないことに決めた。今夜のところは、誰にも言わない。
問題は、その窓が一方通行だということだった。
漏れているのはこちらの中身だ。向こうは読むだけで、こちらに返事をよこすわけではない。そして、こちらから何を言っても、もう信じられない。
電報は疑われる。声明は疑われる。密使も疑われる。
言葉が全部使えなくなったとき、何が残るか。
一二三は紙の裏に、鉛筆で書いた。
言葉は届かない。物なら届く。
書いてから、しばらく見ていた。
物というのは、その場にある物のことである。相手が自分の目で見て、手で触れられて、嘘のつきようがないもの。
たとえば、飛行艇が一機、泊地に浮いているとする。
その機体は、そこにあるという事実だけで、いくつものことを同時に言う。ここまで飛んできた、という航続の事実。誰も撃たなかった、という事実。積んでいる物と、積んでいない物。そして——降りたということは、帰るつもりがあるということだ。
これは声明ではない。文書でもない。翻訳を通らず、暗号も通らず、外務省も軍令部も通らない。向こうの下士官が双眼鏡で見て、そのまま報告できる。
海軍には、それだけの距離を飛べる機体がある。九七式飛行艇。
一二三は鉛筆を置いた。
まだ、どこから飛ばすか、誰を乗せるか、着いた先で何をするか、何も決まっていない。決まっているのは形だけだった。
形が決まっていれば、あとは埋まる。将棋と同じである。
十一月二十八日。
一二三は、第九項への返しを書き始めた。
昨夜は、値札を見つけたところで止まっていた。役に立たない紙に、信用という高い値札がついている。そこまでは見えた。だが、値札がついているというだけでは、誰も動かない。
紙に書いて人に読ませるなら、もう一度、下から組み直す必要があった。
まず、同盟に値打ちがあるかどうかを確かめることにした。
軍事同盟が同盟である以上、こちらが困ったときに向こうが何かをよこす。それが同盟の中身である。
いま日本が困っているのは、油だった。
この国が動かす油の八割は、米国から買っていた。残りは蘭印と、わずかな国産である。八月に米国が資産を凍結し、石油の輸出を許可制にした。凍結された金では代金が払えないので、許可が下りても一滴も動かない。蘭印も英領も、同じ月のうちに足並みを揃えた。
買える先が、世界から消えた。
残っているのは、貯めてある分だけである。海軍の手持ちで二年。動かさなくても減る。工場が回るだけで減る。二年というのは、何もしないで坐っていた場合の二年だった。戦争を始めれば、もっと早い。
その油を、同盟国がよこすのか。
紙の左に、独伊が使っている油の出どころを書き出した。
ルーマニアのプロエシュティ油田。ドイツが欧州で押さえている油田は、実質これ一つである。
足りない分は、石炭から作っていた。
人造石油という。石炭を粉にして油と混ぜ、高い圧力と熱の中で水素を押し込むと、油になる。理屈の上では成り立つ。実際に作ると、十の石炭を投じて一の油が出てくる。残りの九は、工程そのものを回すために消える。
そのために、ドイツは何千人も働く巨大な工場をいくつも建てた。
油田なら、地面に穴を開けるだけでいい。湧いてくる物を汲んで、船に積む。それだけの物を、あの国は何十倍の手間と金をかけて、工場で作っている。
作っているという事実そのものが、あの国に油がないことの証しだった。
自分の戦争を回すのにも足りていない。足りているなら、あの国は今年の六月にソ連へ攻め込んでいない。南へ、カフカスの油田へ向かって進んでいる。
一二三は鉛筆を止めた。
同じだった。
日本が南方の油田へ向かっているのと、ドイツがカフカスの油田へ向かっているのは、同じ理由である。二つの国は、同じ物が足りなくて、同じ方角へ手を伸ばしていた。
同盟というのは、こちらに無い物を相手が持っているときに値打ちが出る。持っていない者同士が結んでも、足りない物は足りないままだった。
油を取りに行っている国が、こちらへ分けてよこすはずがなかった。
仮に、独逸に余裕があったとする。
余った油を、どこへ回すか。まず自分の戦車がある。飛行機がある。潜水艦がある。東部戦線で何百万の兵が動いていて、その全部が油で動く。それを削って、地球の裏側にいる同盟国へ回す。
そういう判断をする国があるなら、一二三は名前を聞いてみたかった。
一滴を作るのに十倍の石炭を燃やし、何千人を工場に張りつけ、その工場を爆撃から守るために高射砲を並べている。そこまでして絞り出した油である。
それを、太平洋の向こうの国に、ただで送る。
同盟だから送る、という理屈が通るのは紙の上だけだった。
仮に、分けてよこすと言ったとする。
一二三は紙の右に、経路を書いた。
欧州から日本まで、油を積んだ船を走らせる道は三つしかない。
喜望峰を回って印度洋へ入る道は、途中の全部が英海軍の海である。スエズ運河は英国が押さえている。北回り、シベリア鉄道は、ソ連の鉄道でドイツの油を運ぶことになる。そのドイツとソ連は、いま戦争をしている。
残るのは潜水艦だった。一隻が積める油は、戦艦一隻を一日走らせる量にも届かない。
三本とも消して、一二三は鉛筆を置いた。
同盟国から油は来ない。政治の意思の話ではなかった。地図の上で起きないことである。
軍事同盟というのは、互いに何かを渡し合える距離にある国同士が結ぶものだ。日本と独伊のあいだには、その距離がなかった。結んだ紙は、はじめから何も運んでこない紙だったことになる。
それでも、こちらから破るわけにはいかない。破った国だと言われれば、次に日本と約束をする国がなくなる。
昨夜、値札の話で止めたのはそこだった。
今朝、続きが見えた。
昭和十四年八月、日本がノモンハンでソ連軍と撃ち合っている最中に、ドイツはそのソ連と不可侵条約を結んだ。日本に通告はなかった。平沼内閣は「欧洲の天地は複雑怪奇」と言い残して総辞職している。
今年の四月、日本は苦心のすえ、ソ連と中立条約を結んだ。外相が自らモスクワへ出向き、北の憂いを断ったと新聞が書いた。
二か月後の六月、そのドイツが、ソ連に攻め込んだ。これにも通告はなかった。日本は、前の年に同盟を結んだ相手がいつ誰と戦争を始めるかを、新聞で知る立場にある。
二度である。二度とも、日本は蚊帳の外に置かれた。
したがって——と一二三は書いた——第九項が求めているのは、日本に何かを捨てさせることではない。すでに存在しない物について、存在しないと認めさせることである。
日本は約束を破る国にならずに、この一項目を差し出せる。破ったのはこちらではないからだ。
呑めないのは三つではなく、二つになった。呑めるほうが、八つになる。
その晩、盤の前で、山本は二枚の紙を最後まで読んだ。
読み終えて、一度目は何も言わなかった。二度読んだ。
「筋は通っとる」
「はい」
「通っとるだけだ。これでは誰も動かん」
長官は紙の一枚目を、一二三のほうへ滑らせた。
「お前は、ドイツが裏切ったと書いとる」
「事実でございます」
「事実だな。それで、聞いた人間はどう思う」
一二三は答えられなかった。
「裏切られたと言えば、こっちが間抜けだったという話になる。同盟を結んだのは誰だ。日本だ。間抜けだったと自分で言う人間の話は、誰も聞かん。座が白ける」
山本は紙を指で二度叩いた。
「言い方を変えろ。ドイツが裏切ったと言うな。日本が二度、置いていかれたと言え」
一二三は、その二つの文の差を、頭の中で並べた。
中身は同じである。事実も同じ。動くのは、聞いた人間が感じるものだけだった。裏切られたと言えば、自分の落ち度の話になる。置いていかれたと言えば、侮辱の話になる。
この国の中堅どころが、法律論では一歩も動かないことを、一二三は四年見て知っていた。侮辱でなら動く。
「承知いたしました」
「それから、これを言うのはお前ではない。わしでもない」
「はい」
「署名した本人が言うのがいちばん効く。来栖だ。あれがワシントンにおる」
紙を返しながら、長官は言った。
「同盟に判をついた男が、同盟はもう無いと言う。それなら誰も反論できん。わしが言うたところで、あいつは最初から反対だったと言われて終わりだ」
その通りだった。一二三が思いつかなかった一手である。
彼は紙を受け取って、一礼して部屋を出た。
口は、外にある。
軍が言えば命令に聞こえ、こちらが言えば嘘に聞こえる。言うべき人間は、いつも卓の向こう側にいた。
一二三が持っている外への口は、一つしかない。
十一月二十九日の朝、一二三は舷梯の手前で暗号長を捕まえた。
「また呉か」
「今日は岩国まで参ります」
岩国には海軍の飛行場がある。柱島から北西へ、船で一時間ほどの陸地である。
岩国海軍航空隊。去年開かれたばかりの練習航空隊で、艦上攻撃機と陸上攻撃機の搭乗員を育てている。九六式陸攻と九七式艦攻が、朝から晩まで滑走路を使っていた。学校であるから、機体の出入りが多い。ついでに人と紙を載せる便が、日に何度も立つ。
呉は物と人が動く港で、岩国は紙が動く場所だった。急ぎの書類は岩国へ持っていく。朝に載せれば、夕方には霞が関に着く。
「託送を頼みたい。急ぎだ」
暗号長は書類束を持ち直した。爪の割れた親指が、束の端にかかっている。
「東京便に載せます。夕方には着きましょう」
一二三は封筒を渡した。宛先は外務省。名は三上。
総力戦研究所で同じ班にいた男である。班というのが正確でないのは、あの研究所には階級も役所の壁もなく、若手が寄せ集められて模擬内閣を作らされていただけだからだ。一二三は企画院総裁、三上は外務大臣を割り振られた。
外務省の秘書官級で、英語ができた。独身で、両親はすでになく、東京に係累がない。異動を打診されればどこへでも行き、断られても誰も困らない。そういう男を、上は無造作に動かす。今回も、南方局の急な欠員で、いつもより早く霞が関へ呼び戻された口だった。
あの四か月、二人は昼休みにずっと将棋を指していた。三上は弱かった。弱いくせに何度でも指したがった。
封の中は、退屈な手紙である。ほとんどが将棋の話だった。その頃の勝敗を数え上げ、そちらの体調を尋ね、東京の寒さを気にする文面が、便箋二枚のうち一枚半を占めている。
今もこちらで指す相手がいる、と一二三は書いた。相手は強く、負け越している、とも書いた。あの研究所で自分たちが並べた盤も、結局あの読みの通りに進んでいるようだ、と一行添えた。
研究所にいた者にしか通じない書き方だった。模擬内閣で二人が出した結論——対米開戦は長期には必敗——を、将棋の勝敗という別の形に着せ替えただけの一文である。検閲が読めば、負け越している将棋の話にしか見えない。三上が読めば、あの答申どおりに事が動いている、という警報になる。
誰が開けて読んでも、何も出てこない手紙だった。実際、途中で誰かが読むだろうと思って書いてある。
二枚目の、真ん中あたり。
将棋の話から役所の愚痴に移ったふりをして、こう書いた。
先の一局、あちらから十の手が来た。こちらが受けねばならんのは、
そのうち二つだけだ。残り八手は当たらん。三つばかりは、
受けておいたほうがこちらの得になる手すらある。
以下、気になる三手について書く。
盤も見ずに十手まとめて投げる者が多すぎる。
三手目だ。敵陣の二十七桝のうち、左側の下の九桝からは
駒を引かん。あそこはこちらの都合で残す。事後承諾で構わん。
分からんのは、右上の九桝からもこちらの駒を引くと含むかどうかだ。
お前のところで確かめてくれ。
四手目の玉は切って、奥の敵陣の王に持ちかけてはどうか。
いま向かい合っている玉より、あちらの王のほうが話が早い。
九手目は何の得もない。自陣の安全と天秤にかければ、
切るのが良策だ。ただし切るのはこちらではない。
その駒に自分の名を書いた者が、あちらにおる。
言わせろ。
それと、この一局は、こちらの手をあらかじめ知っている者の
指し方だった。並べ直してみたが、そうとしか読めん。
手の内が漏れているという前提で指したほうがいい。
駒台は伏せるな。伏せれば、あちらも指し方を変える。
こちらの持ち駒が見えているうちが、まだ読みやすい。
誰が読んでも、投げやりな将棋の愚痴にしか見えない。
二人にだけ通じる言葉で、一二三は四つのことを書いた。
あの答申のとおりに事が進んでいる。このままでは破滅する。
ハル・ノートは十項目のうち八つが呑める。東京は十全部が無理だと読んでいるが、それは読み違えである。呑めないのは二つだけだ。
その二つのうち、支那からの撤兵が満洲まで含むのかどうかを確かめてほしい。仏印は事後承諾でいい。南京の政権は切って、重慶と直接話せ。
三国同盟は、署名した本人に言わせろ。
そして最後の一段は、確認でも依頼でもない。警報である。こちらの手は、あらかじめ読まれている。
そのうえで、読まれたままにしておけ、と書いた。
その晩、一二三は同じ写しを長官室へ持っていった。山本は二枚を読み終えて、何も言わずに駒箱の蓋を開けた。
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